問題発言の度に違和感
こんなニュースがありました。
麻生氏「2000年にわたり同じ民族が、同じ言語で、同じ一つの王朝…日本しかない」 批判呼ぶ可能性
https://mainichi.jp/articles/20200113/k00/00m/010/149000c
このブログでは、麻生財務相の発言そのものについては、いちいち論評しません。とりあえず、「政府がこれまで認めてきた『事実』とは違う」とだけ申しておきます。
さて、こうした問題発言の度に違和感をおぼえることが2つあります。
1つは、メディアの第三者的な論評です。
上記の記事では、毎日新聞が「批判を呼ぶ可能性がある」としています。
また、「(政府見解と)矛盾するとの指摘が出る可能性もある」と書いたメディアもありました。
実にまどろっこしい表現です。
批判したいならば「問題だ」とハッキリ言えばいいし、政府見解と矛盾するならば、「矛盾している」と言えばいいんです。
こういう表現は、問題発言がある度に見受けられるものです。
批判したいけど、矛盾だと指摘したいけど、自分から言いたくないから世論の反応を見ている。
批判や指摘の主体となると言い返されたら嫌だから、第三者が言ったことにしている。
そんなとこでしょうか。
人間付き合いの中でもありますよね。自分が批判的に思っているのに、カドが立つから直接言えず、「こんなこと誰かが言ってるのを聞いたよ」なんて言う人。
一個人ならそれも勝手かもしれませんが、メディアの役割は、「権力を監視すること、批判すること」です。
それを放棄して、自らを安全地帯に留めようとする姿勢は、卑怯に思えてならないのです。
2つ目は、当の本人からの「誤解が生じているなら」という発言です。
麻生氏「誤解が生じているなら、おわびのうえ訂正」 「2000年同じ民族」発言
https://mainichi.jp/articles/20200114/k00/00m/010/074000c
これも問題発言の度に聞かれますよね。「誤解させたならば申し訳ない」とか。
「私の考えは間違っていません。あなたたちが誤解したのです。私の考えや発言について謝りはしないが、『誤解させた』ことだけは謝ります。」ということでしょうか。責任の一部を受け手に転嫁していますよね。
この麻生氏の件で言えば、「一つの国で、一つの民族」とハッキリ言っているわけで、誤解する余地はありません。
この発言を正しく理解すれば、「麻生氏は『日本は単一民族国家だ』と言っているんだね」となります。誤解などではありません。
ですから、おわびするのであれば、それは「誤解させたこと」ではなくて、
「アイヌ民族の存在を忘れていてごめんなさい」とか、
「政府見解を知らなくてごめんなさい」とか、
「口がすべって、心にもないこと言ってごめんなさい」とか、そういうお詫びになるはずだと思うのですが。
「私は間違っていない!」と思うのならば、「誤解させて・・」なんて心にもない謝罪をせずに、素直に政治家として自説を述べ続けて、批判を甘受するなり、矛盾する見解の政府から離れるなり、すればいいんです。
こうした中途半端な謝罪についても、ぜひメディアは「私たちが、どこをどう誤解したと言うのでしょうか?」と突っ込んでもらいたいところです。
今回は、麻生発言そのものではなく、一般的な問題発言の際に見られる、メディアの報じ方と、その後のお詫びの仕方について書かせてもらいました。
とはいえ、私も安全地帯にいるようで気持ちが悪いので、最後にハッキリと批判しますが、今回の麻生発言は問題ですね。
アイヌ民族を先住民族とした「アイヌ民族支援法」に明らかに矛盾しますし、アイヌ民族だけでなく、大陸からの多くの渡来人もそうですし、そして今や、外国にルーツを持つ様々な国民・市民が大勢いるわけで、そうした事実に反します。
「目くじらを立てるほどでも」と思う人もいると思いますが、私はそうは思いません。
「歴史的事実を知らない」
「国会で幾度も議論された上での政府の見解だと知らない」
「知っているけど、認めたくないから周囲にそう発信している」
「マイノリティのことは眼中にない」
「存在は知ってるけど少数派だから、一括りにしちゃえ」
彼の発言の真相がどれなのか(あるいは、それ以外なのか)は知りませんが、政治家、ましてや彼ほどの権力者が、このうちのどれであっても、私は一国民として困ります。看過すべきではないと思っています。
堺市議会議員ふちがみ猛志