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ふちがみ世界紀行ドイツ編

クロアチア編で前振りしましたし、W杯の奇跡の勝利の相手方ともなりましたので、ドイツ編も勢いで書いてしまおうと思います。

 

ドイツの思い出と言えば、サッカー、ビールと、友人のサーシャです。

 

ドイツは2回訪問しました。

1回目は1998年4~7月の間で2~3週間くらい、2回目が2001年9~11月の時に1週間弱の滞在だったと思います。

※ミュンヘンの市庁舎

 

他の国よりも割と長くいましたし、特に1回目は、私の地元の親友で、ミュンヘンに音楽留学していた稲本響くんの自宅でお世話になりましたので、大変思い出深い国となりました。やはり、現地に知り合いがいると、旅も全く違うものになります。

余談ですがその稲本響くんは、その後ピアニストとして、作曲家として、音楽監督として活躍し、来春のNHKの大河ドラマ「どうする家康」でも、音楽監督を務めています(応援、よろしくお願いします!)。

 

サッカーでは、2回目の訪問の際にチャンピオンズリーグのバイエルン・ミュンヘンvsフェイエノールトの試合の観戦に行きました。ドイツ独特のうなるような低い声での応援はインパクトがありましたね。当時はオリバーカーンの全盛期でした。

 

そして何と言っても、ドイツと言えばビールです。こうして公園で平日の昼間から、大勢の方々がビールを飲んでいたりします。

そもそもなぜ2回もドイツを訪問したかと言うと、そのビールが目的だったのです。

1回目でドイツの有名なビアホール「ホフブロイハウス」の生演奏とビールに魅せられ、その雰囲気に私は感動しました。1時間に1回くらいホフブロイハウスの歌が流れ、それが始まるとみんなでジョッキを掲げながらの大合唱です。

※右が友人のサーシャ

 

しかし、そんな平時のビアホールを褒めれば褒めるほど、現地の人たちは「オクトーバーフェストはもっとすごい!」と言うわけです。世界的に有名なミュンヘンのビール祭りです。

あまりにすごい、すごいというもんですから、どうしても行きたくなり、本当はスペインあたりを旅する予定だった2001年の旅で、寄り道してドイツから入ることになったのです。

 

オクトーバーフェストでは、ものすごく広い会場に、ビール会社がそれぞれに巨大なビアホールを設営します(サーカスとかの巨大なテントみたいなかんじですね)。ホール中央の生演奏は、カントリーミュージックから、ノリのいい最近の曲まで。ノリのいい曲が始まるとみんなで歌って踊ります。このあたりは平時のビアホールと同じですが、やはり祭り特有の高揚感、そして規模感が違います。

※ドイツでは何も指定しなければ1ℓのジョッキで来ます。

 

まあ、これは百聞は一見に如かずでして、ビール好きの方、ドイツを旅される方はぜひこの時期(9月下旬から10月上旬あたり)に合わせてください。写真は見知らぬおじさんですが、そんな現地の方々とも、すぐに仲良くなれます。

そうそう、この写真の私ですが、このあと暑くて黒のタートルネックを脱いだんですが、その下にブルースリーのTシャツを着ていたもんですから、まわりの欧米人は大興奮で、一躍人気者になりました。いまは多様性の時代ですが、当時はまだまだ「アジア人といえばブルースリー!」というステレオタイプの見方が根強くあり、むしろそれで旅行中に親しくなることが何度もありました。

 

さて、ドイツでは考えさせられることもたくさんありました。

 

ユダヤ人の収容所跡は衝撃的でした。これは行くべきですね。戦争、平和、差別について考えさせられました。

そして差別は日常にもありました。

当時はドイツでもネオナチが社会問題化していたのですが、スキンヘッドのそれらしきお兄さんたちにギロっと見られて、背筋が寒くなったこともありました。

また、街中でも小さな子どもから大人に至るまで、時にひそひそと、時に吐き捨てるように「チンチャンチョン」と言われることがありました。主に中国人(や東アジアの人たち)を侮蔑する言葉です。

これはわりとヨーロッパ中で言われましたが、その頻度がダントツに多かったのがドイツだったように思います。

 

そんなドイツで印象的だった出会いが、サーシャでした。

サーシャはビアホールの写真に写っている、私の横で騒いでいる青年で、稲本響くんの紹介で知り合い、仲良くなりました。

ドイツ訪問時に会っただけでなく、彼も日本にやってきました。堺で有名な天ぷらの大吉さんにも連れて行きましたし、アニメ好きなので大量のアニメグッズを買いにも行きました。

ドイツでは寿司パーティーをしたり、バスケをしたり(スポーツは世界の共通語!)、私の楽しいドイツでの日々は、彼あってこそでした。本当にいい奴でした。

 

そんなサーシャにも、ネガティブな意味での印象的な出来事がありました。

 

私はドイツからクロアチアに行き、またドイツに戻るという行程だったのですが、帰ってきた時に稲本くんが「サーシャに会っても、クロアチアに行ってきたことを言わないように」と言うのです。

訊くとサーシャの母親がセルビア人で、彼のアイデンティティはドイツよりもむしろセルビアにあり、ユーゴ紛争でセルビアと戦ったクロアチアと、それを支援したアメリカが大嫌いだと言うのです。そして、その名前を聞くだけでも烈火のごとく怒り、制御が利かなくなると言うのです。

クロアチア、アメリカの他にも、コソボ、スロベニア、NATO等々も禁句でした。

 

それでも、W杯でクロアチアが躍進したこともあり、彼の口からクロアチアやアメリカの話題にすることがあり、(彼なりの解釈での)その悪行を聞かされることもありました。

日本にいる私にとっては、ユーゴ紛争の報道はどうしてもアメリカ寄りになるせいか、「クロアチアやコソボを贔屓目に、セルビアを敵方として」、つ捉えがちでしたが、立ち位置によってこうも見方が変わるものかと、痛切に感じました。

 

またサーシャは悪気なく、時に私へのお愛想として、韓国や中国の悪口を言うことがありました。

大のアメリカ嫌いの彼は、私がアメリカに批判的なことを言うと喜びました(私はお愛想で言ったわけではありません)。そして彼は同様に、韓国や中国のことを悪く言うと、私が喜ぶと思ったのです。

彼の心の中には「かつて戦争をした者同士、嫌い合っていて当たり前」という、『彼なりの』常識があったのです。

 

もちろん私はそんなことでは喜びませんし、そもそも韓国や中国を嫌ってもいません。彼にはやんわりとその気持ちを伝えましたが、語学力の限界もあり、どこまで伝わったかはわかりません。

確実に言えるのは、戦争が生まれる前の出来事である私と、ルーツのある国が攻撃されて親類縁者が被害に遭うさまを、そして母親が涙するさまをリアルタイムで見聞きしている彼とは、決定的に違うということです。彼はユーゴ紛争の際にはすでに中学生くらいだったはずです。そんな思春期の彼に、戦争は強烈な憎悪を植え付けたんだろうと思います。

 

どうすれば彼の傷が癒えるのか、私には今もってわかりません。

時が経てば癒えるのか、あるいは彼にアメリカやクロアチアの友人ができた時なのかもしれません。

 

私にとっては、戦争、歴史、差別について深く考えさせられ、色んな視座で物事を見る大事さを教えられた、サーシャとの出会いでした。(残念ながらここ10年くらい連絡を取っていなかったので、取ってみようかなあ・・)

 

堺市議会議員としても、平和教育や、国際理解教育に人一倍思いを傾けてきたつもりですが、その背景にはサーシャとの出来事、そこで感じたことが、少なからず関わっています。

 

さて、次はどこにしましょうかね。

これまたW杯でご縁のあった、スペインか、コスタリカか、、、その辺ですかね。

 

 

 

堺市議会議員ふちがみ猛志

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