ふちがみ世界紀行ペルー編
こんにちは。堺市議会議員(堺区)のふちがみ猛志です。
選挙まであと1年を切り、気持ちが焦ってきましたので、ここは冷静になるべく、選挙と最も関係のない旅のブログでも書こうと思います(笑)。
私はこれまで50か国以上を旅しましたが、ペルーはその中で最長の、延べ4か月ほどを過ごした国です。2000年、私が大学生の時のことです。
思い出がありすぎて、書く内容を絞るのがほんと大変、絞り込んでも長々と書いてしまうペルー編です。どうぞ!
なんといってもマチュピチュとクスコ
ペルーといえば、やはり空中都市とも言われるマチュピチュですね。そして、その玄関口ともなるインカの首都クスコですね。
この2か所に行くだけでも十二分にペルーに行く価値はあるでしょう。
私も子どもの頃から世界ふしぎ発見などで何度も見て、まさに憧れの国でした。
あまりの素晴らしさに約4か月のペルー滞在の間に2回行きました。
乾季のクリアなマチュピチュと、雨季の幻想的なマチュピチュ。どっちも最高でした。

※雨季のマチュピチュ
一度はトレッキングで数日歩いて行きましたが、最後の峠を越えてマチュピチュが見えた時の感動は忘れられません。
ちなみに、マチュピチュの写真のあの頂(ワイナピチュと言います)には登れるんですね。そこから遺跡(町)を見たのがこちらです。

※ワイナピチュからマチュピチュの町を見下ろす
インカの首都クスコの街並みは本当に素晴らしくて、隙間にカミソリの刃も入らないという精緻な石造りの家々、美しいインカの民族衣装、、、クスコはのべ3か月ほど滞在することになりました。

※精巧なクスコの石造り

※ひょっとすると別の町だったかもしれないけど、クスコにもこのような民族衣装の方があちらこちらに
プロ意識高きグッバイボーイ
マチュピチュで有名なのが、グッバイボーイです。
マチュピチュは山の上で、通常、麓の駅とはバスで行き来するのですが、帰りのバスが出発する時、民族衣装に身を包んだ少年が「グッバーイ!」と手を振って見送ってくれます。
そしてバスは出発し、つづら折りの道を下っていくのですが、、、すると、さっき手を振ってくれた少年がまたいるではありませんか。
「グッバーイ!」と大きな声でまた手を振ってくれます。

※バスから見たグッバイボーイ
実は、バスがつづら折りの道をぐるっとまわっている間に、少年は山道を駆け下りて先回りしていたのです。そして、何度も何度も先回りしては現れ、「グッバーーーイ!」と。
つづら折りが終わったところで、運転士はバスを止め、グッバイボーイを車内に招き入れます。すると、乗客は大喝采。グッバイボーイはたくさんのチップをもらうわけです。当然、運転士の協力なくして成り立たないビジネスですから、運転士にも分け前(上納?)があるようです。

※要はこんな感じ
さて、一度目のマチュピチュでグッバイボーイを堪能した私は、二度目の訪問の際に、グッバイボーイに同行したくなりました。バスを使わず、グッバイボーイのペースに合わせ、山道で降りることにしたのです。
その時、同じようなタイミングでマチュピチュを出発したバスが2台ありました。バスが2台ということは、グッバイボーイも2人です。そこで事件が起こります。
バスを先回りしたグッバイボーイは、茂みに隠れてバスを待ち、ここぞという時に飛び出して手を振るのですが、都度、1分程度の待ち時間が発生します。その間に2人のグッバイボーイがケンカを始めたのです。
何度かの待機の度にケンカが激しくなり、とうとう一方の子が泣き出してしまいました。おそらく小学校低学年くらいの子どもです。そして、そこへバスがやってきました。
バスが見えた瞬間、号泣していたグッバイボーイは涙をぬぐいながら茂みから飛び出し、一瞬で満面の笑顔に切り替わって、「グッバーーーイ!」。
そして、バスが目の前を通り過ぎると、また泣き顔に戻り、嗚咽しながら次のポイントへの走っていったのでした。
小学校低学年にして、なんというプロ意識でしょうか。
聞くところによると、グッバイボーイが得るチップ収入は、ペルーの平均月収の何倍にもなるそうで、それで家族を支えている少年もいるそうです。
ちなみに、グッバイボーイたちは成長して身体が大きくなるとチップがもらいにくくなるため、マチュピチュへの荷揚げの仕事に変わっていくとかで、、、、成長とともに収入が激減してしまう、なんとも切ないドラマがあるそうです。
沈没のまちクスコ
長旅をしているバックパッカーが、とある町で長居してしまうことを「沈没」と称することがあります。
日本人バックパッカーがよく集まる、いわゆる「日本人宿」ではそれが発生しやすく、特に南米の場合は、日系人が始めたペンションが点在しており、宿で日本食が提供される、、作ってくれる沈没者がいる、、日本人旅行者向けのガイド等の仕事がある、、日本人にとって居心地のいい何かがある、、等々の理由で沈没している人が少なくありません。
私が旅した町の中でもクスコは沈没者が多く、特にクスコのペンション花田は、まさにそんな沈没宿であり、私はそこにプチ沈没した一人でした。
何をしていたというわけでもないのですが、散歩するだけでも楽しくて、たまに郊外の遺跡に足を運んだり、気が向いたらスペイン語教室に行ってみたり、市場に行って食材を買って、宿のフリーのキッチンを使って日本食を作ったり、、、。そうです、気づけば私は、日本食によって沈没に誘う沈没者になっていたのでした。

※線路上に広がるクスコ近郊の市場。列車が来ると慌ててどける。
私は料理が得意ですが、それはこの時期に腕が磨かれたように思います。そして、もう一つ、この時期に学んだ(学んでしまった?)もの、それが麻雀です。
中南米の麻雀
中南米には麻雀パイのある日本人宿がいくつかあり、ペンション花田もその一つでした。
クスコには年単位で沈没し、現地で日本人旅行者向けのガイドをして生計を立てている人が何人かいて、私も少々沈没しているうちに麻雀のお誘いを受け、そして腕を磨いてしまったのです。
中南米には、「中」と「南」と「北」をそれぞれ刻子で揃えると「中南米」という役満になる・・・といったローカルルールが存在しました(麻雀ルールを知らない方には意味不明でしょうが・・)。
そして、クスコ(ペルー)でそんな日々を送った私たちは、「9」「4」「5」をそれぞれ刻子で揃えると「クスコ」という満貫、さらにはチーを2回、カンを2回して、最後に「5」の裸単騎待ちで「チチカカ湖(チーチーカンカン5)」という役満、というローカルルールを開発します。
俺は南米まで来て、いったい何をしているんだろう・・・
とある日ふと我に帰り、私はクスコ(というかペンション花田)を後にしました。そんな私が残したペンション花田の麻雀ローカルルールブックが、今もなおあれば嬉しいのですが、26年も経っているし、さすがにもうないでしょうね。
ちなみに、チチカカ湖はバレバレなので、結局一度もお目にかかれずでした(笑)。

※本当のチチカカ湖
金太郎での日々
沈没した私のクスコでの思い出の一つが、日本食レストラン「金太郎」での日々でした。
「金太郎」の経営者は、通称「金ちゃん」という、おそらく私よりも10~20くらい年上(たぶん)の女性で、たしか彼女も元沈没旅行者だったように記憶しています。
金ちゃんは時々日本食材の買い出しや、各地を旅行をするためにクスコを離れることがあり、そんな時は沈没した日本人バックパッカーを捕まえて(笑)、店を任せることがあったのです。
私もそうして彼女に捕まり、1週間ほど住み込みで「金太郎」の日本人スタッフとなった一人でした。
当時の私の時給は、まかない付き、宿付きで、100円ほど。その額でも3~4人いたペルー人スタッフの2倍だったので、なんとなく心苦しかったのをよく覚えています。
ただ、欧米人観光客の多かったその店は、わりとたくさんチップがもらえて、それが彼らの貴重な収入になっていました。時給の何倍ものチップを置いていくお客も少なくはなく、それをペルー人スタッフ全員で分配することになっていました。チップが貯まってくると、スタッフの女の子がチップを入れた缶をゆすって音を聴き、ニコニコと開封を楽しみにしている様子がなんとも可愛らしく、印象的でした。
一方、私はホール係がそれをこっそり独占しないためのお目付け役でもあったのです。なんとも言えない経済格差を感じたものでした。
また、サービス提供においては、どの国の客かによってマニュアルが違っていて、
日本人とイタリア人は麺固め、それ以外はゆるめ。
日本人は定食として全品を同時に提供、欧米人はコースのように小鉢→味噌汁→メインを順に出す。
○○人は照り焼きのタレをたっぷり等々、
そんな一つひとつの国際体験が私には新鮮で、とても楽しい日々でした。

※私がいた頃よりおしゃれになっている感じがします
赤軍兵士の足跡を辿ってジャングルへ
そろそろクスコを離れようかと悩んでいた私に、思いもよらぬ話が舞い込みます。
私の母の友人の高幣さんという方からの仕事の依頼でした。
高幣さんは、亡くなった友人の若宮正則さんの生涯を本にしようとされていました。
共に学生運動に励んだ仲で、若宮さんはその後日本赤軍の一員となるのですが、ペルーの左翼ゲリラであった「センデロルミノソ」と接触を図ろうとし、拠点としていたペルーのジャングルに向かうものの、そのゲリラ兵士に警戒されて殺されてしまいました。
高幣さんは、終盤まで書き上げたものの、肝心の若宮さんの最期がどんな場所かもよくわからずにペンが止まっていたところ、友人(私の母)の息子がペルーでぶらぶらしていると知り、私に現地取材を依頼して来られたのです。
まあ、そんな怪しげかつ危険そうな仕事を受ける私も私ですが、仲介する母も母やなあと思います。(もちろん、安全情報を私なりに確認してから引き受けたんですが)
クスコから首都のリマへ、そしてリマからバスを取りついでサティーポというジャングルの入口になる町へ。数年前まではセンデロルミノソとの戦いの前線の町だったそうですが、その時はすでにフジモリ政権の掃討作戦によって落ち着いていました。
そこで情報を集め、目的の地域から行商に来ているおじさんをガイドに雇い、オンボロのワゴン(公共交通)で1時間くらい、さらにガイドと共に歩いて3時間ほど、ようやく若宮さんが亡くなったアウトパウレリ村にたどり着きます。彼が来て以来の日本人だと聞かされました。そりゃそうか。

※こんな感じで3時間ほど歩いてアウトパウレリ村に
若宮さんと共に襲撃で亡くなった村民の家族にも会え、当時の様子を聞くことができ、私は無事に取材を終えました。なかなか刺激的な体験でした。
ガイドのおじさんに日当に加えて何かごちそうすると提案したら、彼は中華料理をご指名。なかなかオンボロな中華食堂でしたが、現地の人には中華料理が憧れであることや、またこんなジャングルの町にまで進出している中国人の逞しさに、妙に感心したのを覚えています。
本には私の名前も載っておりまして、いつか「あいつは日本赤軍の関係者・・」とデマを流されないよう、あえて自分から発信しておきます。あくまで「母の友人の友人」ですからね。私は取材協力しただけ。
その昔、「私の友人の友人がアルカイダ」と言った自民党の大臣もいましたし、、どうってことはありません。

※こんな本になりました(堺市図書館にもあります)

※「渕」が間違えてるけど、私の名前が本に。ちなみに左から2番目のおじさんは、村長の家族ではなく、私が雇った行商のおじさん。
フジモリ大統領とペルーの人たち
私がペルーに滞在していた時、まさにフジモリ大統領が3期目の選挙に臨もうとしていた時でした。
日系人初の大統領であり、ペルーの日本大使公邸の人質立てこもり事件で有名にもなった方です。強権的な大統領としても知られています。

※大使公邸人質事件の際のフジモリ大統領(産経新聞ニュースより)
もともとペルーの憲法では大統領は1期5年のみだったのですが、フジモリ大統領は1期目の途中で「2期までOK」とする憲法改正を行います。そして当然のように2期目に入ったフジモリ大統領ですが、なんと3期目にまで出馬したのです。なぜそれが可能だったのか?
彼の解釈はこういうことです(とペルー人から聞きました)。
1期目は旧憲法下での1期目。
2期目は新憲法下での1期目。
3期目は新憲法下での2期目。だからOK。
すごい解釈ですね。憲法とは何なのかと、考えさせられます。
フジモリ大統領は、テロを掃討したことでも知られますが、その一方で多くの冤罪を生んだとも言われています。
そんなフジモリ大統領に反対するデモ行進があった時、日本食レストランが標的になりかねないと、あわてて金太郎を閉めたのをよく覚えています。
私が日本人だと知って、あるいは日系人だと思って、「フジモリをどう思うか?」とよく訊かれました。当たり前のように他人と政治の話をするところに、政治への熱さや身近さを感じにはいられませんでした。それが、私がそうではない日本で政治家を目指した要因の一つにもなっています。
その他いろいろ
他にも思い出がたくさんのペルー、あと少しだけ。
ペルーと言えばマチュピチュともう一つ、地上絵ですね。
セスナで旋回しながら一つずつ見せてくれるのですが、、、グルグル旋回するので私はグロッキーでした。

※ナスカの地上絵(宇宙人)
こんなバスが町中を走っています。おじさんたちがフツーに乗っていて笑えてきます。

※宮原幼稚園?
氷河のそばで行われる奇祭。氷河の氷で飲むロックは最高でした。


※現地人に連れてこられたため、今もって何の祭りかよくわからぬまま
「おい、おまえに似てないか」と町中で呼び止められた少年。似てるかな?

※うちの長男に似てる気がする…ので似てるのか(笑)
首都リマでは、強盗(5人ほど)に襲われるも、ブルースリーのモノマネで撃退(ほんとです!)。アジア人でよかった!

※アジア人といえばカンフー使い(空手家等)と思い込んでいる南米人はわりといます。少なくとも当時は。
まだまだ書きたいことはありますが、ずいぶん長くなったのでこの辺で。
堺市議会議員ふちがみ猛志

LINE登録はこちらからも↓↓↓