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旧優生保護法の最高裁判決

こんにちは。堺市議会議員(堺区)のふちがみ猛志です。

 

最高裁判所は、旧優生保護法が憲法違反であるとし、国に対して、同法に基づいて不妊手術を強いられた方々への賠償を命じました

このニュースをご覧になられた方も多いだろうと思います。

 

高裁判決では原告の請求権を認めないものもありましたから、最高裁でまともな判決が出てホッとしました。

このことについて、少し書いてみたいと思います。

 

私はええ加減な大学生でしたが、腐っても法学部。

この手のニュースには、つい書きたくなってしまうのです。

 

優性保護法とは?

ご存じない方のために書きます。

 

優生保護法は1948年から1996年まで存在した法律です。

 

この法律は、障害のある子どもを「不良な子孫」と規定し、社会全体のためには、そうした子どもが産まれてこない方が良いという考え方(優生思想)に基づき、障害者に対して、本人の同意がなくても強制的な不妊手術を行うことを認めていました。

 

この法律により不妊手術を受けることになった方は約2万5000人いるとされ、その約2/3、1万6500人は本人の同意がなかったとされています。報道によれば、何らかの治療で医療機関にかかった際に、本人の知らないうちに「ついでに手術される」ケースが多かったようです。恐ろしい話です。

また、残る1/3の方の「同意」も、このようは法律下、社会情勢下ですから「同意」と言えるものではなかったケースが少なくないことでしょう。

 

今回の裁判は2018年、強制的に不妊手術を受けさせられた方々が、国を相手取って起こしたものでした。

 

私の高校生時代まで存在した同法

多くの方は、日本が「人権が保障された民主的な国家」だと思っているはずです。

 

私もそう思って育ちました。

中学生の頃には社会科の授業で「基本的人権の尊重」を学び、高校生の頃にはその裏付けとなる憲法を学びました。世界人権宣言や、国際人権規約も勉強しました。

小学生の頃から「差別はいけないんだ」ということを、何度となく学んできました。

 

なので高校生の頃の私は、「日本は人権が保障された国」だと強く信じ、それを疑うこともありませんでしたし、まさか同時にこんな法律が存在していたなんてことをまったく知りませんでした。

 

1996年の皆さんはどうでしたか?

 

除斥期間の適用を求めた国と認めた仙台高裁

このような法律が、法の下の平等や、幸福の追求を定めた憲法に違反するのは明確です。

 

強制的に不妊手術をさせられ、人生を狂わされた方々の苦しみは如何ばかりか。

国に賠償責任があるのは当然だと思いますが、そうではない判決もありました。仙台高裁の判決です。

 

不法行為があっても、20年を経過すると賠償請求権が消える「除斥期間」の適用を国が求め、それを仙台高裁は認めたのです。

 

これほどの人権侵害をしておきながら、賠償を逃れようとは、国はなんと厚顔無恥なことでしょうか。苦しんだ人たちを救おうという気はなかったのでしょうか。

 

また、被害者の中にはこの訴訟によって初めて「自分も不妊手術をされていた」と、被害に気づいた方もいたようです。そんな方々に「気づくのが遅かったから」と、国は門前払いをしようとしたわけです。

2018年の提訴以降、この訴訟に関わった政府関係者は恥を知るべきです。

 

これについて、「適用するのは著しく正義・公平の理念に反する」「国が除斥期間が過ぎたと主張することは信義則に反し、権利の乱用で許されない」と最高裁は喝破しました。

まともな判断がなされ、本当によかったと思います。

 

ネットにぶらさがる差別コメント

しかし、この判決のネットニュースを見ていて、私は逆に暗い気持ちにもなりました。

 

ニュース記事には、おぞましい差別的なコメントが多数ぶらさがっているではありませんか。

旧優生保護法を擁護する、まさに優性思想むき出しのコメントの数々です。

 

私は1996年時点、この法律が存在した頃の日本の人権保障について先に述べましたが、30年近く経った今も、人の心の中にはかような差別が存在しています。これは、法律という「形」があるかないかより、もっと恐ろしいことのような気がします。

 

ここ数年を振り返っても、2016年の相模原市の障害者施設「津久井やまゆり学園」での45人もの殺傷事件は、まさにこの優生思想に基づくものでした。

 

物議を醸した自民党の杉田水脈議員によるLGBTの方々への「生産性がない」発言も、「子どもを産む・産まない」を生産性に結び付けるという点で、私は完全に同根だと思っています。

日本が真に人権が保障された国であるかどうかは、法律や政府の施策だけでなく、私たちの心のうちこそが問われているのだと思います。

 

常に求められるアップデート

少なくともこの法律が施行された1948年時点で、(中には異論もあったのかもしれませんが、)世の多数がこの法律を「ヨシ」としたわけです。

 

また、同法は1970年代に幾度かの改正の議論がなされていますが、そこでも優生思想に基づく障害者への人権差別だという点での議論があまりなされなかったようです。現に改正案には盛り込まれず、1996年の改正まで著しい人権侵害の条項が残ることとなりました。

 

果たして今、このような人権侵害に繋がる法律や施策は、わが国に存在していないのでしょうか?

 

20年後、30年後の将来、いま私が優生保護法についてこう書いているように、「よくもまあ、そんな法律が存在していたものだ」と書かれてしまうようなことはないでしょうか?

 

私たち、とりわけ政治に関わる者は、常に人権感覚を研ぎ澄まして、時代の変化や聞こえてくる当事者の声を受けて、自らの感性と理性をアップデートしていかなければなりません。そして、常識を疑う目を持って、現行の法律や施策がそれに適っているか、厳しく見つめていく必要があります。

それが政治家の役割だとも思います。

 

このような法律を作ってしまったこと。

1996年まで存続させてしまったこと。

廃止後30年近く、最高裁判決が下るまで補償しなかったこと。

 

こうした一つひとつを顧みて、いつか胸を張って「人権が保障された国だ」と言えるようになりたいものですし、堺市という狭い範囲ですが、一市議としてその務めを果たしていきたいと思います。

 

 

 

堺市議会議員ふちがみ猛志

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