現場の声に耳を傾けない体質なのか
来年度、海外ルーツで日本語指導が必要な子どもへの指導体制が変更になることについて、委員会質疑で取り上げました。
どのような変更かと言うと、
資格を持った専門的な日本語指導員の予算を1/4ほどに減らす。
その分の予算で、資格のない日本語サポーター(有償ボランティア)を新設する。
というものです。
そして、そのサポーターをどう活用するのかと言えば、
「日常会話はできるが、学習言語能力に課題のある子」のために、「入り込みによる学習支援」をするというのです。
日本語指導が必要な子は、従来、通常の授業から離れて(抜き出して)、個別指導をしていました。しかし、日常会話ができるレベルの子であれば、通常授業の中で、つまづいた時にいわゆる「やさしい日本語」で解説してあげるサポーターが横にいれば、それで大丈夫だというのです。
レベルの高い子には、支援も小さくてもいいい。
有資格の専門指導員でなくても、ボランティアのちょっとしたサポートでいい。
私も最初に聞いた時は、「なるほど」と思いました。
ところがです。
この制度変更について、実際に日本語指導員として活躍されている方に意見を聴いたところ、「まったく逆だ」とおっしゃるのです。
「レベルの高い子にこそ、より専門的な指導が必要」なのだと。
その指導員さんはこんな問題を出して説明してくれました。
Q. 次の【 】に入る助詞は、【が】と【は】のどちらでしょうか?
むかし、むかし、あるところにおじいさんとおばあさん【①】住んでいました。
ある日、おじいさん【②】山にしばかりに、
おばあさん【③】川にせんたくに行きました。
たいていの方は分かるでしょう。①が『が』で、②③が『は』ですよね。
でも、分かるからと言って、皆さんはその使い分けを外国の方に論理的に説明できますか?
私たちが使い分けられるのは、日本語を母語として育つ中で培われたフィーリングによるものです。
母語でない方にはそのフィーリングがありませんから、これを論理的に説明しなければなりません。
指導員の方は、これを「アカデミックな指導」と表現されていました。
他にもこのような事例をたくさん聞きました。
一見、同じ意味だと思える「用意」と「準備」の違い。
「ようい、どん」とは言っても、「じゅんび、どん」とは言いませんよね。
「結婚の準備」とは言っても、「結婚の用意」とはあまり言いません。
物騒な話ですが、「テロ等準備罪」ってありますよね。仮にこれが「テロ等用意罪」だったら、違和感がありませんか。
テストでもよく、「点と点をむすびなさい」と出てきます。
私たちには何の違和感もありませんが、外国ルーツで日本語を学んでいる方からすると、「むすぶ」というと、「紐と紐とくくるイメージ」で、「点と点をどうやってむすぶの?」と感じてしまうこともあるようです。
今、大河ドラマで話題の源氏と平氏。
げんじ、へいし、みなもとの、たいらの、げんぺいの合戦。
私たちが難なく覚えるこの読み方も、外国ルーツの方にはそうもいきません。
「げんへいの合戦」「みなもとのたいらのの合戦」なんて読み方をしてしまえば違和感があり、間違いだとわかりますが、その違和感は母語ゆえのものです。
これが、「生活言語はできるけど、学習言語はできない」ということです。
生活言語の指導よりも、むしろ学習言語の指導の方が難しく、より専門的な「アカデミックな指導」が必要だと言うのです。
また、指導の難易度だけでなく、「入り込みはよくない」という指摘もされていました。
生活言語ができる子は、周りからも「できる」と思われているし、自分でもその自尊心があります。なのに、授業の時に横に大人が張り付いてサポートするというのは、とりわけ中学生くらいになると、その自尊心を傷つけることにもなりかねません。
「生活言語ができる子、習熟レベルの高い子こそ、抜き出しての、アカデミックな指導を」というのが、私が意見を求めた指導員さんの主張です。
教育委員会の今回の制度変更の主旨とは、真逆のものです。
さて、前置きが長くなりましたが、この件についてどちらが正しいのかを問いたいのではありません。
私が議会で問うたのは、「制度変更にあたって、現場の声を聞いたのか」ということです。
この問いに、教育委員会は「センター校の教員には聞いた」ですとか、「指導員には面談の時に」などなど、ゴニョゴニョとはぐらかす答弁をしましたが、「やってないなら、やってないとはっきり言うように」と追及すると、最後には「聞いてていない」と認めました。
日本語指導員さんたちには、『この制度変更にあたっては』意見を聞かなかったというのです。子どもの一番近くで指導にあたっている方々なのに、です。
実は、私がこのような指摘をするのは、今回が初めてではありません。
日本語指導では、2年前に突然に指導員の報酬が2/3に減らされるという事態がありましたが、事前の意見聴取はありませんでした。
日本語指導だけでなく、スクールソーシャルワーカーの雇用形態が変わった時も、学校司書の配置人数が変わった時もそうでした。
近年、「チーム学校」という言葉がよく使われるようになりました。
教員だけでなく、上記のような専門スタッフや、さらには保護者、地域の方々も含め、子どもたちと学校を支えていく「チーム学校」なんだそうです。
しかし、堺市教育委員会ではそのような言葉を使いながらも、いざ何か大事な判断をするときには、子どもの一番近くにいる専門スタッフの方々の意見を聞こうともせず、現場から離れたところで勝手に決めてしまう。「チーム学校」が聞いて呆れます。
子どものために制度変更するならば、子どもの一番近くで教育に携わっている人の意見が重要ではないか。
極めて当たり前のことを問い、教育監から「重要だ」という答弁をもらいました。
そして、「今後、同じことがないように」と強く求めました。
今回の日本語指導の体制変更の結果がどう転ぶかは、やってみないとわかりません。
制度変更そのものについては、上記の指導員さんの心配が杞憂に終わり、教育委員会の狙い通りにうまく行く可能性だってあります。
しかしながら、このような現場を蔑ろにした対応は、現場で働く人たちの士気を大きく下げますし、そのしわ寄せは子どもたちに来てしまいます。
教育委員会事務局に感じられる、現場の声に耳を傾けようとしない体質。
これが改善される時まで、私は議会で指摘をし続けるつもりですし、同時に、現場の声を届ける役割を果たしていきたいと思います。
堺市議会議員ふちがみ猛志