教育長との意見交換の場は記録ナシに
本日、教育長と文教委員との意見交換の場が設けられました。
これは、堺市が初めて外部人材の教育長を招いたこと受け、文教委員会の委員長である私が、どうしてもやりたいと思い、文教委員に諮って企画させて頂いたものです。
教育長からの講演1時間、文教委員からの質疑応答・意見交換が1時間と、なかなかたっぷりの内容でした。聞くところによれば、教育長とのこのような場は、堺市議会でも初めてとのことでした。
さて、その意見交換の中身については、次のブログに書くことと致しまして、まず先に、その「意見交換の場」をセッティングする過程で起こった出来事について、ここで書かせてもらいます。
それは、この意見交換の場を、「記録を取らない会」としたことです。
このことについては、ブログに書こうかどうかちょっと悩んだのですが、私はこの委員会の責任者です。市民の皆さんの中には、「新しい教育長がどんなことを言ったか知りたい」「議事録を見たい」という方も出てくることでしょう。しかし、その記録を「作らない」という決定をしたわけで、私にはその説明責任があります。
そのようになった理由はシンプルです。
文教委員のうち、複数の委員が「記録を取るべきでない」と強く主張したからです。
私自身は、当然のように「記録を取るべき」と考えていました。
公人である議員と、公人である教育長が、議会事務局職員を使ってその場をセットし、意見交換するのです。「べき」かどうかなど、問うまでもない話・・・、とすら思っていました。
議会基本条例には、議員の活動の透明性や、市民に対する説明責任が謳われています。
委員会条例には、委員会の会議は記録を取らなければならないことが謳われています(この会がその条文で言うところの「会議」に当たるかどうかは微妙ですが、記録を残すことが大事であると謳っていることには間違いありません)。
先週の委員協議でこれが議題になったのですが、私と同じように「取るべき」とされたのは、8人の委員中、私の他に2人、計3人でした。
また、別の1人は、「べき」というよりは、ご自身でこの会を「後から振り返りたいから」と、記録を「取ってほしい」と主張されました。
さらに別の1人は、取るべきかどうかについては、ややフラットなようでしたが、私の意を汲んでくださり、「委員長が望むなら、取ればいいのでは」とのご意見でした。
一方、残り3人は「取らない」ことを主張され、特にうち1人は「取るべきではない」と強く主張されました。
その理由は、「記録を取ると、忌憚のない意見交換ができない」というものでした。
その後、委員協議では、
いやいや、私たちも教育長も公人なんだから、、、
記録を取った議論なら議会ですればいい、、、
でも議会でこんな長時間しゃべれる場はない、、、
それでもやっぱり記録を取ると制約になる、、、、
などなどの意見が交わされました。
私個人としては、記録を取ることが「忌憚のない議論」に対する一定の抑止力になってしまうことは理解できましたが、それよりも、情報公開、活動の透明性、市民への説明責任、という大義が圧倒的に優先されるものと思っていました。(もちろん、今もそう思っています)
また、そもそも他会派の議員や、大勢の職員の前で意見交換するのだし、その場の内容は各議員がSNSなどでも発信するのだろうから、公式の記録を取ろうが取るまいが、「言えないことは言えない」のです。よって、記録の取る・取らないは、議論にさして影響しないのではないか・・と思えてなりませんでした。
そんな中、いましばらく協議を続けたところ、「取るべきではない」を一番強く主張されていた方が、
「記録を取るのならば、この会は開催すべきでない」
「記録を取ると初めから分かっていれば、この会に反対していた」
とまでおっしゃられたのです(一言一句正確ではありませんが、主旨はこの通りです)。
「記録を取るべき」と考えてる人たちでも、「取らないなら開催すべきでない」とまでは主張されてはいませんでした。「取るべき」派は、記録を取ろうが取るまいが、開催そのものは○だったのです。
ところが、「取るべきでない」派の方は、開催そのものが×になるというのです。
これを聞いて、私は記録を取ることを断念せざるを得ないと感じました。
一時は、記録を取るかどうか、採決をしようかとも思いました。
そうすれば、「取る」ということに決しっていたと思います。
また、そもそも委員長には会の招集権限がありますから、独断で決めることもできました。
ただ、委員長の責務は「会の円滑な運営」です。そこに立ち返ると、「×」だという委員がいない状態を目指すべきであり、それはつまり、「記録と取らずに開催」を選択することしかなかったのです。
いやはや、この件は勉強になりました。
これは嫌味でもなんでもなく、素直に感じました。
自分の常識・感性に囚われていたらあかんなぁ、と。
とりわけ、集団の意見を調整する立場になると。
情報公開や、透明性、記録を残すということは、議員としての常識だと思っていたのですが、必ずしもそうではなかったのです。
いや、それらが「大事」というくらいは共有していたのでしょうが、その程度がどうかというと、ずいぶんと差があったのです。
結局、「記録を取らない」ということになった今日の意見交換を聴いていても、「取らなかったからこそ出てきた意見」と言えるようなものは見受けられませんでしたが、、、それもまた、私個人の感覚です。きっと「取るべきではない」と主張された方は、いつも遠慮なく意見する私などより、ずっと繊細な方なのかもしれません。
また、別の「記録を取るべきでない」派の委員は、取らないことにしたのに、結局、何も意見をしませんでした。正直なところ、「おいおい」と思いそうになりましたが、、、その方はそもそも、自分が「意見しやすいかどうか」ではなく、他人のためにそのような主張をされたのかもしれません。お優しい方なのかもしれません。
・・・しつこいようですが、嫌味やないんですよ。本当に。
私も一委員なら、こんな風には思わなかったし、違う態度を取ったでしょう。
記録を取る・取らないの協議の場でも、論破してやろう、と思ったかもしれません。
違う常識を持つ人、違う感性を持つ人も含め、うまく合意点を見いだすにはどうすればいいか、
それでも自分の意見を通すにはどのような調整が必要であったか、
わずか8人の委員会ですが、意見を調整し、円滑な運営をする立場として、そんなことを勉強させてもらった出来事でした。このようなことは、これから政治の世界で経験を積めば積むほど、増えていくのでしょうね。
「なんで、記録も取ってへんねん!」という市民の声に対する説明責任とお詫びとして、
また、自分の常識に囚われがち、自己主張しすぎな自分への反省の記録として、ここに残しておきます。
なお、会議の中身そのものについては、別途ブログに纏め、後日発信いたします。
堺市議会議員ふちがみ猛志