歴史を語り継ぐ大事さ
文教委員会は昨日で、今年度最後の開催となりました。
出席した教育委員会の理事者のうち、3名の方が、今年度で定年退職を迎えるにあたり、それぞれご挨拶がありました。(正確には、質問に立った議員が「何か一言どうぞ」と振り、それに『答弁』する形です。年度最後の会には、慣例的にそのようなやり取りがしばしば見られます。)
3者3様のいいご挨拶でしたが、私が個人的に強く印象に残ったのが、教育委員会事務局理事のご挨拶でした。
それは、堺市で発生したO157による、集団食中毒のことでした。
平成8年、学校の給食によって児童7,892人を含む、9,523人が罹患し、3人の児童が尊い命を失った重大な事件でした。また、平成27年に、その後遺症でさらにお1人がお亡くなりになっています。
理事のご挨拶の中では、
毎日30㎏の消毒液を担いで、学校のトイレや教室を消毒してまわったこと。
その直後に保健給食課長となり、まさに針のムシロに座って毎日業務に奔走していたこと。
時を経て、お1人がまたなくなり、無念の思いをさらに強くしたこと。
などなどが熱く語られました。
私は当時大学1年生で、しかも被害の多かった(今の)南区ではなく堺区におりましたから、当時の状況をよく知るわけではありません。
ただ、そんな私にも、当時の状況が目に浮かぶようで、胸に迫るものがありました。
そして理事は、
事件を知らない若い職員も増えている、
事件が風化していることを危惧している。
ということを話されました。
これを聞いてふと思い出したのが、元総理の田中角栄さんの(語ったとされる)言葉です。
「戦争を知っているやつが世の中の中心である限り、日本は安全だ。戦争を知らないやつが出てきて、日本の中核になったとき、怖いなあ。」
というものです。
戦争とO157事件は、必ずしも同列に語れるものでないのは承知の上ですが、、、
少なくともこの堺市で、O157事件以降、安心安全の給食を提供し続けることができたのは、この理事のように、あの凄惨な現場を身を持って体験した職員、教員が大勢いたからでしょう。
「二度と起こしてはいけない」という思いは、事件を知らない者よりも、ずっとずっと強いものがあるはずです。
怖いのはこれからです。
あの事件を知らない人、見聞きして知ってはいるけど実感のない人がどんどん増え、いつか給食業務のすべてがそういう人たちで担われるようになった時です。
果たして、今と同じ緊張感で、安心安全を守っていけるでしょうか。わずかな意識の低下、心の隙が、時に大事故を起こすのです。
だからこそ、戦争の悲惨さを語り継ぐのと同じように、この堺市役所内、および市立学校園においては、O157の悲劇を確実に語り継いでいかねばなりません。
議会でも、事あるごとに「O157」という言葉を発し、議員と職員の心に、そして会議録に刻んでいかねばなりません。刻み『続けて』いかねばなりません。
堺市役所からまた1人、O157事件の経験者が減ることとなりました。
その経験を風化させない、そして二度と悲劇を繰り返さないというのは、残された私たちに課せられた重い責任です。
言うまでもなく、「戦争と平和」についても、然りです。
堺市議会議員ふちがみ猛志