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改めて同和問題を学ぶ

人権ふれあいセンター内にある、舳松人権歴史館に行きました。

いま、私の事務所には3人のインターンの学生が来ています。
せっかくなので、私の仕事の手伝いだけでなく、彼らの勉強になる施設見学なんかができればなぁ…、と思っていたところ、ふとここに行ってみようと思いついたのです。
私もこれまでに何度か足を運んでいますが、せっかくなので(初めて)スタッフの方に解説をお願いし、勉強させてもらいました。

なぜ部落差別が始まったのか。

なぜそれが明治になっても残ったのか。
なぜ今もなお残ってしまっているのか。
実にわかりやすく、解説してくださいました。
私自身、小学校での人権教育は非常に印象に残っていますし、議員になってからも、高い優先順位でこの課題を捉えてきたつもりでした。
しかしそれでも、こうやってお話を聞くと、新たな学び、新たな気づきがたくさんありました。
とにかく一度でいいので、多く方にこの施設に足を運び、できればスタッフの方の解説を聞いてもらえればと思います。
スタッフの方の解説で印象に残った部分を、一つだけ紹介します。
部落差別は、外国人や障害者の差別とは違う。
それらには言葉や文化や障害など「違い」がある。
部落差別には何もなく、人間が勝手に「違い」を作ったことによる差別
これは心の問題
だから、その人がなくそうと思えば、すぐになくせる
「違い」を認め合える社会を目指したいと思ってきた私には、まさに目からウロコのお話でした。
 もちろん、「違いがあることによる差別」も、引き続き、解消していく取り組みをこれまで通り進めていきます。
※追記※
この問題を語るとき、「一切伝えなければいいのではないか?そうすれば、時が経てば人々は忘れるのではないか?差別があった(ある)と教えるから、差別が残るのでは?」という指摘があります。
私も、昔、「そうなのかも」と思ったことがあります。
しかし、それは違うと今では思います。
現に差別はあり、その多くは偏見に基づくものであり、その偏見が人々の記憶や、会話の中、あるいはネット空間に多く存在しています。これらは自然に消えたりはしません。意図せずとも伝わったり、時に伝わる過程で増幅されたり、より歪んだ偏見になることもあります。
同和問題を伝えなくすることは、正しい知識を消し去り、偏見だけを世に残すことになるのではないでしょうか。
これをなくすには、やはり「正しい知識をちゃんと伝える」「実際に見て触れて偏見を正す」しかないのだと思います。
また、同和問題は、我が国の負の歴史でもあると思います。これを「なかったことにする」ことは、いずれまた同じことを繰り返すことになりかねません。教訓として、不条理な過ちとしてこれを正しく伝え、偏見と差別を駆逐しなければならないのだと、私は考えます。

堺市議会議員  ふちがみ猛志

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